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商業者の著書 我が足跡を辿る 店舗紹介

三芳薬品外装

佐賀県唐津市相知(おうち)町の
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HOME»  創業者の著書「我が足跡を辿る」より

三芳薬品創業者 嶺川公利著「我が足跡を辿る」より

「我が足跡を辿る」

三芳薬品創業者 嶺川公利 著 我が足跡を辿る

著者:嶺川公利(昭和61年3月31日)

 目次にはこのように記されています。
戦前の少年時代から、ウラジオストック、三芳商会開業、戦争、長女芳子の死、三芳商会営業再開、相知町消防団団長就任、相知町商工会副会長就任、昭和23年の大洪水、商工会で東京大相撲開催、県議会議員時代、バンボード創立、石油ショック、自宅火災・・・・・。
波乱万丈の一生が綴ってあります。

 それでは、三芳薬品に関するところを紹介したいと思います。


はじめに  

自分はもともと、当時義務教育の小学6年を出ただけで、殆ど教育らしい教育は受けていないのであって、強いて言うならば、少年時代ウラジオストックで、夜学に通いロシヤ語の勉強をした位のものである。
其の私が敢えて自分の生涯に就いて書き残そうとするのは、知人や友人の間から『君の歩いた人生こそ吾々の最も身近に点る灯である。
後進の為にも是非書き残して欲しい』との薦めに逢い、やっと其の気になり鉛筆を握って見ると却々文章が纏まらず、幾度も中止しようとしたが又思いなおしては、書き綴ったものであり少しでも参考になるならば光栄此の上ないことである。  

嶺川利三 三芳薬品創業者


三芳薬品の前身である三芳商会の項より。

戦前偏 

薬種商三芳商会時代 の項より    

 結婚した私は相変わらず貝島三抗(炭鉱)に勤務を続けたが、一生の仕事として薬屋開業の目的があり、其の為には何と言っても先立つものは金である。
資本金の蓄積が先決であった。
浦汐(ウラジオストック)で7ヶ年の末得た退職金や貯金は、先に述べた失敗と弟の学資に使い果たして居り、其の後鋭意貯める貯金も、結婚式の費用に消え去り、却而若干の借金が残されたのであった。

 是から再び薬種商開業準備の為には資本金蓄積が先決で、弐番目が資格の取得である。
結婚はしたものの新婚旅行等夢にも考えた事もなく、なりふりかまわず頑張り続けたのである。

 昭和4年の春であったが新聞に目を通していると、ホシチェーンストア募集の広告を発見し、星製薬株式会社が特約店をしている事が判明したのである。
私は赤缶のホシ胃腸薬が有名品である事を知っていたので、早速応募する事を決意したのである。

 予め自分の仕事として固く決意して準備を進めていた時であり、私はチャンス到来とばかり上京して、星製薬株式会社を訪問したのである。

 応対して呉れたのは営業部の課長であった。
彼は私が全くの素人である事を知ると、星製薬商業学校に入学を勧めて呉れたのであった。
期間は3ヶ月であるが、其の時既に新学期は始っていたのである。
次の開講は7月1日とのことであった。 其処で私は特に頼んで聴講生として入学させて貰ったのである。
上京した尽帰郷する事なく其の尽学校に居残ったのである。
約2ヶ月半星製薬商業学校に学んだ私は、7月初めに帰郷して直ちに開店準備に入った。

 幸い相知駅前に空家を発見した。
家主は隣の能隅さんであった。

 店は間口5間奥行10間で手頃のもので裏の方には畳敷きの部屋があり、2階は全部畳敷きの部屋で3室あった。
更に裏の方には台所や井戸まで掘ってあったのである。

 私は店の改造を姉婿の山口兄に依頼して早速工事に着手した。
工事は急ピッチで進められ7月中に完成したのであるが、店舗を構えるとどうしても電話が必要である。

 其処で家主である能隅さんの電話の協同使用を申し入れたのである。
方法は隣と店との壁を開けて、其処に電話器を置き両家で使用できる様にしたのである。
処が能隅さんは番号が49番であることを気にしていられ、家族が度々病気したり体の具合が悪いのは電話番号で49(シジュウク)ルシムと呼んで、嫌っていられたのである。
其処で此の番号を買い取って欲しいとの申し出に接し、私は此の電話を買い、自分の名義に変更して、語呂合わせを49番(ヨクナル)として宣伝したのである。

 斯くて昭和4年8月1日には、ホシチェーンストア、三芳商会の看板を、相知駅前に掲げたのであった。
時に私の26才の時であった。

 其の間私には昭和3年1月28日に長女芳子が生まれていた。

 店舗を構えてからの私は昼夜兼行の活動を開始した。
星製品の卸売りの面では自転車にて走り廻り、薬局薬店を訪問して得意先の開拓に努力を傾注した。

 一方小売の面でも未だ何処もやっていないアイディアを駆使して注目を集めたのである。
例を挙げると宣伝マッチである。
当時は未だ宣伝用のマッチはなかったので、私は一般に消費されている桃印のマッチに宣伝標語を印刷して両面張とし、片面には『親切第一クスリはミヨシ』とし、片面には『雨の降りでも夜中でも町内は配達5分間』という標語を書き、店へ来た御客には例え5銭の膏薬1枚にも必ず、此の宣伝マッチを渡したので、此の宣伝マッチは大きな反響を呼んだのであった。
更に今一つの例は『三芳衛生タイムス』の発行であった。
毎月1回1日に発行、資料は生理・衛生に関する記事で、印刷は町内の十万社に依頼した。
配布方法は郵便切手が高くつくので自転車で廻り各戸で配布した。 



 此処で一寸屋号の三芳商会について説明して置く必要があるかと思う。
当時若かった私は大変な野心家であったと思う。
資本金は僅か壱千円内外で、それこそケチケチ生活で溜めた貯金と頼母講の落札金及び母の遺族扶助料の貯金であった。

 資本金は僅かでも野心だけは大きく、当時日本の代表的な財閥は三井・三菱で、製薬会社は三共があった。
其処で自分は是等の財閥と肩を並べる迄は考えていなかったが、相当の処まで行く考えであった。
将来多角経営を考えに入れていたのである。
三芳の芳は勿論かんばしくあり度い為であり、事業が大きくなれば、株式会社三芳商会とすれば最も簡単に社名となる事を考えていたのである。

・・・・・・・



 

三芳商会時代(其の2)

三芳商会 昭和11年頃


 浦汐(ウラジオストク)から帰郷して以来私には、何となく不幸が続くような気がしていたのである。

 先ず大正13年には父に死別して、引き続いて又兄に死別したのである。
処が肉親との死別は是だけに止まらず、昭和8年には弟にまで死別したのである。
然も12月には火災に逢って全焼したのである。

 然し此の男の子の誕生に依って是からは自分にも幸運が巡ってくるのではあるまいか、という期待感が生じて来たのである。
不幸の種は年末の火災で焼き尽くしたので、是からは幸運の女神が訪れるであろう、目の前には新築中の新店舗が段々出来上がりつつあるのであった。

 斯くて3月末には仮営業所より、新店舗へと転居したのである。

 新しい家は、店舗を含め下屋を加えて43坪である。
表通り16坪は店舗であり、裏に6畳1室のみ、但し2階には8畳に6畳・4畳半と、3室が取れたのである。

 此の新居に10名の物が暮らす事になった。

 内5名は、6才を頭に子供ばかりである。
実は2月に仮営業所で生まれた男の子は次男であって私には長女芳子が生まれる前に、男の子が生まれていたのであるが、僅か1日此の世にいただけで死別したのである。
僅か1日でも生存していたので、清と名付けて出生届と死亡届をしたのであった。

 話は後戻りしたが、階下の6畳の室には私共夫婦と次男が寝て、2階4には母と3名の娘・弟嫁の親子・其れに店員が寝起きする事になった。

 新しい店となって小売部門が急激な売り上げの伸びを示し始めたのであるが、是は場所が良かった事が大きく影響したのである。

 即ち国道203号線に対して、県道が店の前から分岐して平山に向かって居り、更に大川村(現伊万里市大川町)へ通じている交通の要衝であった事と、町役場や郵便局・農協等が、近くなった事を挙げなければならないであろう。

 私は相知駅前で開業以来の売上や来客数の統計を記録していたのであるが、此処へ来て売り上げの上昇と共に、新しい顧客を永く繋ぎ留める目的で、新しい企画を実施した。

 お買い上げ頂いた商品を御渡しするする際大小の金額に拘りなく、小さなカードを同封してお渡ししたのである。

 カードの表面には『御買い上げ頂いた品に若しご不満がありましたら、裏面にご記入の上御返し願い上げます。』 裏面には単に『記入欄』としただけで、後は余白にして置いた。

 処が此のカードが戻って来た事は殆どなかった。
たまに送られて来たかと思うと『君の真剣な態度に感心した、頑張れよ』 とあったのである。

 私は此の1枚の戻って来たカードに勇気百倍したのであった。
三芳衛星タイムスや宣伝マッチ等々、心ある人は見ていて呉れたのであると、思うと嬉しかった。

 度々店へ買い物に来て呉れる御客の中にスッカリ馴染みになった方から、『うちではマッチを買う必要がなくなった。
君の店から貰うマッチで充分で此の頃は大分溜まって来たよ』という客まで現れるようになって来たのである。  斯くて三芳商会は小売・卸・農薬共に売上は、伸びる一方であった。

 

 

三芳商会時代(其の3)

戦後編

長女芳子の死亡

嶺川芳子 三芳商会

 此処で悲しい報告をして置かねばならぬ。

芳子は昭和19年3月、旭高女卒業と同時に佐世保海軍工業へ女子挺身隊員として入隊し、一年余りで結核を患い帰郷し、仮屋湾を望む有浦療養所に入り療養を続けたが、戦局激化と共に不便な為家庭で専心療養に努めていたのである。

 此が11月1日遂に薬石効なく彼の世へ旅立ったのである。

 私は薬屋の癖に栄養剤の注射1本も用意してやる事も出来ず、己の不甲斐なさに泣くばかりであった。

 にも拘らず芳子は自分の命の終わりを悟ると、私と妻を枕元に呼び
『長い間大変な心配ばかり掛けました。何一つ親孝行もせず済みません許して下さい。』
と言い、更に付き添婦に対しては
『色々と我儘ばかり言ったのにほんとうに良くお世話にて頂きました有難うございました』
と礼を述べ、更に偶然来合せていた私の姉に対しても
『御伯母さん心配ばかり掛けて済みません何時迄も御達者でね』
と其れぞれ別れの挨拶を済ますと、其の儘数秒の間に息を引き取ったのである。

 私は返す言葉もなく芳子の細い声ながら明瞭な言葉に、感じ入っていたので耳元で芳子芳子と幾度呼んでも、穏やかな笑顔の儘で眠って終わったのであった。

 私は40年も経過した今日でも芳子が息を引き取る時の、シーンを忘れ得ないのである。
人間には誰でも自分の死の瞬間が判るのであろうか?
或いは人生を悟り盡せば此の様な穏やかな死に方が出来るのか、娘の枕元には一冊の新約聖書が置かれていた。
私は何時から聖書に目を通すようになったかさえ、知らずにいたのである。
娘の死に大きな教えを受けた気がするものの、自分は死の瞬間果たして悟りきる事が出来るであろうかと、疑問に思えてならぬのである。



 

三芳商会営業再開


三芳商会 昭和24年
(昭和24年 三芳商会)


 敗戦のショックで何等為す事もなく妻が食糧確保に、苦労しているのを眺めながらぼんやり数ヶ月を過ごした私は、娘の死に教えられる気持ちで足元を見つめ直したのであった。
其処で芳子の初七日を済ませると、商品仕入れの為上阪する決意をし、友人の村井右三君を誘って、大阪・名古屋方面へ出発した。

 過去1ヶ年半全く仕入れをせずにいたので、売り溜めの貯金全額を懐中に、米・味噌・醤油等まで準備して出発したのである。

 夜行列車に乗り込み大阪駅へ着いたのが午前5時30分であった。
未だ夜は空けていず薄暗い中を何処かで朝飯を食べさせて呉れる処はないかと、捜していると梅田駅の裏手の方で縄暖簾(ノレン)を下げた飲食店に、電気が灯って居るのを見つけ、朝食を交渉すると、米は持っているかと聞くので、持っていると答えると二つ返事でオーケーであった。
暫く待っていると家では殆どお目に掛からない、白米のぽかぽか飯に味噌汁が出たのである。

 処が此の時の赤味噌汁が美味かった事、今日まで忘れられない。
其の後数回引き続いて上阪しているので、其の都度此の飲食店を捜したが遂に二度と此の店を発見する事は出来なかった。

 大阪で製薬会社や問屋が集まっている処は、道修町界隈である。
村井君と私は朝食を済ませでも未だ少し早いと思いながら、大会社の門が開くのを待ちかねて営業部を訪問した。
然し唐津や佐賀の問屋を通して仕入れていた為初めて取引を、申し込んだので先方では一寸戸惑った感じであったが、上司からせっかく遠方から態々御出で頂いたのだから、便宜をはかってやれ、と命ぜられた由で、注射薬を主として譲渡して呉れたので有難かった。
次いで2・3の製薬会社を訪れ新薬等も手に入れることが出来、後は家庭薬や衛生材料等仕入れ、更に名古屋市まで足を伸ばし、名古屋の現金問屋を訪れ若干の仕入れを済まし、是れで持って行った資金も使い果たしたので帰佐する事にした。
従来から取引のあった家庭薬のメーカー等は、大変歓迎して呉れたのであった。

 相知へ帰って1週間も経つと、注文していた薬品類が次々と到着した。

 病院や薬局へ電話すると、早速先方より足を運んで呉れるやら、中には土産品まで持参する人もあり、3日と在庫する事はなかった。
是れで如何に薬品が無くて困っていたかが、よく判るのである。

 此処で私は2回3回と仕入れの為に上阪を繰返して行ったが、回数を重ねている間に東京まで足を伸して行った。

 戦前盛んに販路を伸している農薬部門が国策に従って、農協に一本化されたので、戦後は必然的に医薬品に力を注ぐ事になった。

 幸い唐津や佐賀の暖簾(ノレン)の古い問屋筋が未だ動き出さない時点で、大阪方面から医薬品を仕入れて病院方面へ納入したのが、大きく作用して病医院のお得意先を開拓することが出来たのであった。

 斯して私は毎月仕入れに上阪・上京して暫くの間は大いに儲けさせて貰ったものである。

 処がインフレが昂進(コウシン)して諸物価は猛烈な勢いで高騰を続けるので、政府は第1回のインフレ政策を実施したのであった。

 其の方法は従来市場に流通している旧紙幣の流通を禁止に、俗に新円と言う紙幣を発行し旧紙幣には証紙が貼付されてなければ、使用出来ない事になったのである。

 一方銀行預金・郵便貯金其の他預貯金一切が封鎖され、使用が禁止されたのであった。

 此の不意打ちの強行手段で一時経済活動は停止するのではないかと思えたのである。

 此れが良くしたもので一時は相当のショックであったが、是だけでインフレ昂進を停止する事は出来なかったのである。

 幸い私は此の旧円封鎖の時点では、殆ど預貯金はなく、全部商品に替っていたので手持ちの商品を売り捌く事で、左程運転資金に困る事はなかった。

 斯して新円切り替えでも大して打撃を受ける事もなく、三芳商会は順調な発展を続けたのである。
此の頃の私は何と幸運な男かと思った程であった。

 此が天は二物を与えずの諺(コトワザ)通り、政府はインフレ抑制の第2弾として、財産税を課して来たのである。 折角新円切り替えで稼いだ分を財産税という新手で、ゴッソリ吸い上げられてしまったのであった。

 然し私は屈しなかった。 此の頃になると病院や薬局等可成りの御得意先も出来て居り、且つ仕入れ先にも信用が付いていて、現金でなく共約束手形での支払いが可能になっていたので、信用取引で活路が開けて来たのであった。

 処が此処でインフレ抑制の第3弾とも言うべき、財産増加税と言う新手の課税が発令されたのである。
此処で私は考えざるを得なくなった。
成程帳簿上の数字を見れば相当の利益が計上されては居るが、インフレに由る日本円の実質的価値の下落を考えると、却って資産は増える処か減少しているのではないかとさえ思えるのである。

 即ち戦前の日本円は、1ドルに対して弐円(2円)で交換されていたのが、インフレの昂進で現在ではドッジラインに由ってやっと、365円の水準が保たれている有様である。
従って今日の日本円は戦前の円に比べると、実に180分の1弱の価値しかないのである。

 併も為替相場こそ365円であっても、国内の諸物価から見ると日本の円は、もっともっと下落していると見るべきである。

 従って帳簿の上での数字の膨張は当然のことである。

 然るに帳簿上の数字を基礎に、財産税や財産増加税と吸い上げられるのでは、経済の発展はありえないのである。

 其処で私は個人経営の三芳商会を、株式組織に改める事にした。即ち

 昭和24年5月、株式会社三芳商会を設立、代表取締役に就任した。



 
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